
東京の水辺からもう一つの東京を想像する、クルーズツアー〈ツアー編〉
アーティストによるリサーチの視点や作品制作のプロセスを辿りながら、いつもとは異なる角度で地域を知るためのまちあるきや哲学対話を行ってきたオバケ東京研究会*。
佐藤さんご自身も以前から水辺には注目していたものの、近づけば近づくほど、倉庫やコンテナ施設などに行手を阻まれ思うようにリサーチが進まないという経験から、今回は建築家・都市史研究者である渡邊大志さんにご協力をいただき、海から東京を見てみる「オバケ東京クルーズツアー」が実現しました。
今回は、日の出桟橋から船で出発し、東京港湾、隅田川、日本橋川を辿り、お台場を回ります。渡邊さんによる都市の変遷の解説と、佐藤さんの朗読が織り重なる旅になりました。後半はSHIBAURA HOUSEへ移動して、お二人の対談とQ&Aを行いました。
東京の水辺からもう一つの東京を想像する、クルーズツアー〈対話編〉はこちら
*オバケ東京研究会…アーティストの佐藤朋子とSHIBAURA HOUSEのプログラム・nl/minatoが、港区のリサーチ活動の一環として協働で開催している研究会。美術家の岡本太郎が1964年に提唱した「オバケ東京」論をベースに「もうひとつの東京」を想像するためにフィールドウォークや対話の会などを開いている。
海辺からみる江戸時代の都市変遷
船で出発すると、佐藤さんによる岡本太郎の「透明な芽ー青空(1965年4月)」の朗読からスタート。幸いにも当日は晴天で、波の音と岡本太郎の言葉が空に広がり、なんだか別の境界へ連れ出されたような不思議な感覚になりました。
浜離宮を過ぎ、工事中の旧築地市場が見えてきた頃、渡邊さんによる解説が始まりました。漁師が安全を願うために建てられる築地の波除神社は当時の海岸線を示しますが、現代ではかなり内陸に存在していました。さらに進むと江戸の転機にもなった霊岸島が見えてきます。江戸幕府になると徳川家康は、当時の半島(江戸前島)に繋げる形で日比谷の入江から埋立を進めていきます。霊岸島もそのうちの一つでした。ところが1657年に江戸の東側を焼き尽くした明暦の大火が発生。戦国時代までは川を軍事防衛壁として城塞都市を築いていましたが、江戸になってからは戦乱もなかったことから、大火の後に一帯は経済都市へとシフトし、河川は物流網として整備されていきます。都市が町人たちへ開かれていったことから、日本橋や銀座などの商業地域が生まれるきっかけにもなりました。

目の前に見えるのが霊岸島(今の地名は新川)。島に元々あった霊巌寺が深川に移転したことで、材木問屋が軒を連ね、当時は船大工が大勢住んでいたそうです。その後は酒造街・大倉庫街になり、明治以降は宅地開発されていきました。
埋立の歴史についてさらに詳しく知りたい方はこちらhttps://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/history/pdf/e-do01.pdf
運河に染み込んでいく岡本太郎の言葉
船は南高橋の水門から亀島川へ入り、日本橋の方まで移動していきます。橋の下についていた黒い煤は、関東大震災の時の焼け跡なんだそう。朗読された岡本太郎の「都市建設への提案/オバケ都市論(1965年10月)」は、佐藤さんの作品でもよく引用される一節。港湾部とはまた違った少し閉じた空間の中で、水の音や声の反響、街ゆく人々を眺めながら聞こえてくる言葉とともに、いつもに増して街そのものに自分が引き寄せられていくような気がします。

提案がある。東京のすぐ近く、たとえば千葉県の海ぞいあたりに、もう一つの東京を作るのだ。それはいま進んでいる新ロンドンや新パリ計画のように、旧市街を保存し、その補助となるニュータウンではない。この2つの東京を猛烈に競わせ、相互に刺激させるためにである。
行政、立法の機関も2つに引き裂かれていい、東京の現在の不満をもつ、あらゆる人間がそこに移り住んで、アンチ東京を結成するのである。(略)
前に私はオバケ論を書いたが、オバケ、つまり反人間のほうが人間よりずっと生き生きしたイマジネーションであるように―――その意味でこの都市を「オバケ東京」と宣言してもいい。
岡本太郎「都市建設への提案 オバケ都市論」(1965年10月)より抜粋
『岡本太郎著作集〈第8巻〉岡本太郎の眼』(講談社、1980年)収録
既成事実の積み重ねによってできた東京港
東京港が本格的な国際貿易港になるのは、1941年のこと。横浜の反対もあり、表だった港湾開発はできませんでした。そこで旧江戸港の海域は河川港として発展していくことになります。明治時代に、大雨による旧荒川(現在の隅田川)の氾濫を軽減させるため、荒川の水の一部を水門で枝分かれさせ、東京湾に流すための人口の川(荒川放水路・現在の荒川)を新設することに。そこで出てきた浚渫土砂の行き場として、月島や芝浦といった埋立地の造成が進められました。表立って港を建設するのではなく、あくまで船が川から海に出ていく河川工事の結果として埋立てを行い、その埋立地が港湾機能を持つことによって既成事実として港ができていったとのこと。

江戸の最終防衛線だった今のお台場、レインボーブリッジの内側の埋立地が戦前までの東京港の範囲で内貿(国内取引用)埠頭と今でも呼ばれているそう。一方で戦後に埋立が始まった青海や有明などは外貿埠頭(国際貿易用)と、役割も含め呼ばれているようです。こうした東京港の変遷を背景に、岡本太郎の「オバケ東京論」や、丹下健三の「東京計画1960」の構想へと繋がっていくのです。
戦後の東京港が辿った道とお台場フロンティア計画
今でこそ港湾埋立地といえばタワーマンションというイメージかもしれませんが、東京の場合は、明治期から「河川法」に則って埋立てを行ってきました。河川法はそもそも、水門や倉庫などの河川施設のみ建設可能で、都市計画法ではないため都市機能は作れません。ところが戦後新たに制定された「港湾法」の但書きや都市計画法における港湾関連施設などの登場によって、港湾エリアの開発は緩和の道を辿ります。
そんな中計画されたのが、丹下健三が力を注いだ世界都市博覧会。東京テレポートを金融情報施設として位置付け、それに付随する形でオフィスや住居、レクリエーション施設などを含む、今までにない最後のフロンティア都市として計画されたのが現在のお台場です。世界都市博覧会が計画されていたのは1996年。船から見えるお台場はまさにその未来都市の名残という名の廃墟であり、丹下健三が設計したフジテレビ本社はオバケさながらに未だに存在しているのかもしれません。2020年の東京オリンピックでコンパクトシティを掲げて港湾でオリンピックを実施したのは、一部の人にとっては、世界都市博覧会のリベンジの意味合いがあったのではないかと伺えます。
世界都市博覧会の残像、夢の大橋へ
解説の最後は実現しなかった万博のために作られた夢の大橋の入口まで。世界都市博覧会の会場のちょうど真ん中の軸線にあたる場所です。丹下健三は「東京計画1960」のリバイバルとして、世界都市博覧会を位置付けていました。その軸線の先に一体何があるのか。第二部への問いを残して、渡邊さんからの解説は終了しました。最後は佐藤さんによる岡本太郎の「パリ回想」の朗読を聞きながらツアーは幕を閉じました。
実際に歴史の痕跡を辿りながら船で巡ってみることで、時代的・文化的なレイヤーがいくつか重なって今の東京の港ができていることがわかりました。またお話を聞いていると、岡本太郎や丹下健三たちが持っていた構想がどのように生まれたのか、彼らがどんな景色をみていたのかということも少し垣間見えたような気がします。船を降りてからは、まるで自分が元々海から都市へやってきた人のように、どこか現実味のない感覚で街を移動しながらSHIBAURA HOUSEへ向かいました。
========>後編へ続く
今回クルーズツアーで巡ったルート(協力:株式会社ジール)

■メンバープロフィール
佐藤朋子(さとう・ともこ)
1990年長野県生まれ。2018年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修了。レクチャーの形式を用いた「語り」の芸術実践を行っている。近年の活動に、オンライン・プロジェクト『TWO PRIVATE ROOMS-往復朗読』(青柳菜摘と共同、2020–)、「第14回恵比寿映像祭:スペクタクル後 AFTER THE SPECTACLE」(東京都写真美術館、2022)出品、「公開制作vol.2 佐藤朋子 狐・鶴・馬」(長野県立美術館、2022)など。また、シアターコモンズにて東京をフィールドに展開するプロジェクト『オバケ東京のためのインデックス』に2021年より取り組んでいる。http://tomokosato.info/
渡邊大志(わたなべ・たいし)
建築家・早稲田大学創造理工学部建築学科准教授。博士(工学)、 一級建築士。
世田谷まちなか観光交流協会委員、港区景観審議会委員、 東京建築士会事業委員、第22期日本建築学会代議員。
経済空間としての都市を生み出し、ひいては人間の暮らしの基盤となっている海、航路、湾、港、暗渠をひとつなぎのものとするメタインフラを「ブルーインフラ」と総称し、展覧会などを開催している。
1980年、鎌倉生まれ
2005年、早稲田大学理工学術院建築学専攻修了。
2005年-2013年、石山修武研究室一級建築士事務所勤務。
2012年、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。
2016年、早稲田大学創造理工学部建築学科准教授、 株式会社渡邊大志研究室一級建築士事務所設立。
2019年-2020年、フィンランド・ アアルト大学客員研究員。
2022年、リンクアーキテクツ株式会社に改称。
受賞歴:東京建築士会住宅建築賞金賞(2021)、 日本フィンランドデザイン協会賞(2021)、 日本建築学会作品選集新人賞(2022)など。
