
レポート:「Designing Cities for All #1 - 人々の連鎖」
(⭐️次回のイベントは2024/5/28です。映像アーカイブはこちら↗︎)
アムステルダムの文化機関パクハウス (Pakhuis de Zwijger) が主催する、みんなのための都市をデザインするためのプログラム「Designing Cities for All 」にSHIBAURA HOUSEがフェローとして参加しています。
「つながりの(再)デザイン」を主題に、3回にわたるイベントの対話を通して「人」「コミュニティ」「都市」に焦点を当てていくこのシリーズ。初回となる4月30日は、「個人レベル/日常の中のつながり」についてディスカッションが行われました。スピーカーは、生物心理学者、対話ファシリテーター、茶道家、僧侶。異なるバックグラウンドをもった参加者たちの意見から「つながり」というコンセプトの豊かさが浮かび上がってきました。
違いが前提となってつながりを選ぶ?
今回、話し合いの中で一見相反する意見が出てきました。
ひとつは「すべては異なる存在で、それを理解してこそつながれる」という見方。もうひとつは「すべてのものは最終的に繋がっている」という考え方です。
生物心理学者のMeikeさんは前者の意見。遺伝学を研究する中で、すべての人は違っていて、その違いこそが鍵となると気づいたそう。企業や学校でも取り組まれ始めた「インクルーシビティ(包括性)」の根本は、「あなたは私とは異なる」ということを常に認識するということだと言います。また、自分自身との関係性から成り立つウェルビーイングにも、画一的な対処法は存在しないのだとか。幸せの基準が主観的に文脈によって変化するように、ウェルビーイングのもととなる「生きることの意義」も他者と単純に比較はできません。
Debraさんが創設した「Humans of Amsterdam」は、道ゆく人のストーリーをポートレート写真とともにインタビューで紹介するプロジェクト Humans of New York のアムステルダム版
加えて、写真家/対話ファシリテーターのDebraさんは、人々のバックグラウンドの違い、アムステルダムの階級社会についても言及。「Humans of Amsterdam」の創設者として多様な人々が行き交うストリートで11年間もの間ポートレートとインタビューを収集するなかで、ストーリーテリングはつながりを再デザインしていくことでもあると考えています。一人一人の全く違う生き方に耳を傾けることで取材の場での個人的なつながりが生まれるとともに、メディアで発信されることでそれぞれの人が持つ都市/コミュニティとの関係性(例えば、移住者がアムステルダムをどれだけホームに感じるかなど)にも変化をもたらすことができます。
実を言うと、Debraさん自身がメディア取材を受ける際には「人々はみんな同じ」というメッセージを求められがちなのだといいます。しかしボスニア・ヘルツェゴビナでスレブレニツァの虐殺(1996)の影響下で子ども時代を過ごした人々にインタビューも行っている彼女は、そのことを快く思わないのだとか。一番重要な議論は、それぞれが違う立場にあることを認識した上で「他者との違いをどの程度まで受け入れられるのか」ということなのではないかと話していました。
すべてはもともとつながっている?
一方でオランダ出身で、日本で裏千家の茶道を学んだHermanさんは、すべてのものは最終的につながっていると考えているそう。茶道を通して感覚を研ぎ澄ませることで、自分を取り巻く世界をより安心する場所にできるといいます。頭で考えることをやめ、お茶を入れる音や香りに集中すると、日々の雑踏がすごくシンプルになっていくのを感じるのだとか。そういった感覚的シンプルさを突き詰めた時に、人々に鼓動が同じくあるように、「すべての人は違うとはいえ、同じである」と言える瞬間があるのではないかということを示唆していました。

世界中で翻訳されている松本紹圭さんの著書『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』より
僧侶の松本紹圭さんは、大乗仏教の教えを背景に「インタービーイングネス/相互存在」という言葉でつながりをとらえます。これは「すべての人が空間的・時間的な外的世界とのつながりの中で存在している」という考え方。
例えば日々の掃除は「空間的なつながり」のデザイン。自己が自分を取り巻く環境とどうつながるのかを捉え直す行為といえます。
さらにイベントでは参加者が「時間的つながり」を体験できるワークショップとして、松本紹圭さんによる瞑想の時間も。現在を生きる自分の家族から始まり、(血縁を超えて)過去を生きたすべての祖先たち、そしてこれから生まれる人々とのつながりを想像しました。瞑想の最後には、その大きな流れの中で自分はどのように「良き先祖 / グッド・アンセスター」となれるかを考えました。大きな時間軸が自分の一部であり、同時に自分もその小さな一部として存在していると思うと不思議な安堵感がありました。
つながりの対極にあるもの
イベントではオーディエンスからの質問にもスピーカーが直接回答しました。なかでも印象的だったのは、「つながりの対極にあるものは?」という質問。それまでふたつに分かれているように見えた「つながり」の捉え方が、本当はもっと複雑であることを垣間見れました。
生物心理学者のMeikeさんと茶道家のHermanさんは「ジャッジすること」と回答。つながりの捉え方では異なる意見を持っていた二人ですが、ここでは同意見となりました。
写真家/対話ファシリテーターのDebraさんの答えは「自分の内面とつながれないこと」。他者とつながることは自分の脆さを受け入れることでもあるため、内面的障壁によって他者とのつながりが阻害されることはよくあるのではないかと話していました。
僧侶の松本紹圭さんは、「つながりの対極はつながりかもしれない」とコメント。今回の質問の構造自体が二元論的であるように、ふたつに分ける思考法が人々を分ける要因になっているのではないかと指摘していました。
おわりに
「違いが前提となってつながりを生むこと」と「もともとすべてがつながっているということを認識していくこと」。会を通して、ふたつの方法を見てきました。私もイベントに参加しながら「どちらの意見に収束するのだろう?」と話を追って行きましたが、最後に腑におちたのは「どちらかひとつを選ぼうとしないこと=つながりの豊かさ」ということでした。
またウェルビーイングや社会的背景による対立と対話、自己の内面と向き合う実践や時空間の捉え方など、「つながり」のさまざまな切り口を知りました。それだけ複雑に多層的な捉え方ができるということは、わかっていたようで、本当はほんの一部にしか目が届いていなかったのではないかと感じています。
今回、もっと自由に「つながり」を捉えられることに気づけたのが一番の収穫だったと感じています。これからコミュニティスペースの場をより身軽に考えられるではないかと期待しています。
(早朝にもかかわらず日本からご参加いただいた松本紹圭さん、ご協力いただいた皆さんありがとうございました!)
